神棚

先日、うちに入会した一人の少年に道場で聞かれた。

なぜ、ここに神棚があるのかと。

 

長い間空手の指導をしているが、こんな事を聞かれたのは始めてだった。

その利発な少年の詳細は伏せるが、はてと考え込んだ。

 

昔聞いた処によると明治以降の国家神道令により全国の武道場には設置を義務付けられたとかなんとか…。

年端も行かぬ少年に問われてというのも少々ばつが悪いが、明確な答えを求めて考える。

 

自分は司馬遼太郎氏だの池波正太郎氏だのの歴史小説が大好きで学生時代には読み漁ったもんなのだが、何となくの記憶ではそもそも、武道場には剣と武の神様である、鹿島大明神、香取大明神の二柱の垂れ幕を床の間にデンと据えてあるイメージがある。

 

ウィキペディアなどを散見するに、大人の都合に依るころが大きく、要は明治期の国家神道令により全国の武道館に神棚を設置し、敗戦を契機にGHQの武道禁止令で外されたりしたらしい。

 

八百万の神々もご迷惑な話である。

 

言われて二宮町武道館の神棚をまじまじと眺める。

造営時に設置されたであろうそれは、なかなかの立派さなのだが、ご多分に漏れず経年劣化で煤けていて、ご神体の鏡が神殿の前に出されている上に、神棚自体の扉は固く閉じられている。

うらぶれた鏡がまるで締め出されているようにも見えて愛嬌たっぷりだが少し同情してしまう。

 

考え方、祀り方はそれぞれだが、通常お札がご神体の場合は本殿に安置し直接目視するのはカミサマに至極無礼なので扉は閉じておく。逆にご神体が鏡の場合には、御簾に隠したり、最奥に据えたりといろいろあるが、基本的には人目に触れる様にする。

 

まぁ、二宮町の武道館の場合は、どうやらあまり大事にはされていない様子から察するに、ご神体の鏡が中央に晒されているにも係わらず、ひょっとしたら神殿の中には別にご神体として、お札が祀られているかもしれない等と想像し、児戯の様に覗いてみたい欲求にかられてしまう。

 

そもそも、家庭内における神道は、仮に神棚があっても、災いが起きそうな場所、災いの基になりそうな場所を神様としてお祀りする風習がある。

トイレ、井戸、玄関等々・・。病気の基になりそうだから、悪い報せをもたらしそうだから、と考えてしまうような場所には、なんとか大人しくしていて下さいという鎮めの意味でお祀りをする。

開運風水も聞かなくなって久しいが、玄関や風通しの良い場所に黄色の物を置くだの、鬼門に柊や南天を植えるなども言ってみればこのなごりだし、いまでも、コウジンさまだの、井戸神さまだのって正月には鏡餅を祀る処も田舎の方には結構あるとは思う。

 

話がそれたが、二宮の武道館のご神体は鏡である。

これは武道的にとても興味深い事である。

あくまで私見だし、神職でもない自分が書くのは、想像も含めた一個人の考えだという前提でお話したい。

 

神道と鏡に関しては別項に書いたので割愛するが、鏡のご神体には、スポーツが相対的なものであるのに対し、武道は絶対的な物ですよというメッセージが込められている。

昨今、子供達の間では、フォートナイトという対人格闘ゲームが流行っているが、これもネット上の他人と競い、どちらが強いかという、相対性からなりたっている。

勉強も、仕事も、遊びも、とかく相対的なものによってなりたっている世の中で、何もゲームにまで競わないでも良いのにと、下手な僕などは思うのだが、ゲームも上手い人のプレイを見ていると、それはそれで面白いのだろうと変な関心をしてしまう。

 

昔、日蓮宗の偉い僧侶に若気の至りで仏さまは本当にいるのかと聞いたことがある。いま考えたら無礼千万な物言いだし、紅顔の至りなのだが、その初老の僧侶は私のような生意気盛りの若者に対しても丁寧に説明してくださったのを覚えていて、徳人とはこういうものかと感じたものなのだが、その僧侶は柔和な笑みを浮かべながら、『原さん、仏さまは、いるいないの相対的な処にはおられません。絶対的にいるのです。』と答えて下さった。

つまり、森羅万象が相対的な世界で成り立っている現世にはいないという意味である。

絶対的にとは、解りづらいが、スポーツが相手をおいて競技する相対性にのみ成立すること対し、武道は相手を置かず、自己鍛練のみで成立してしまう。

ゲームに例えて言えば前者は、フォートナイトの様な対人格闘ゲームだったりし、後者の絶対性とは、マインクラフトや、どうぶつの森の様な箱庭作成ゲームだの、あるいはドラクエやゼルダの、目的のないレベル上げだったりするのかもしれない。

 

 

神殿のカミサマを一目見ようと鏡を覗き込むとそこには、自分の姿が写し出される。

あなたの相手はあなたです。

カミサマはあなたの中にもいて、誰もがそのカミサマを持っている。そう思って自分も他人も大事にしなさい。とそう教えているのだ。

試合だってそうだ。相対的なものを競うのではない。

相手を置いて、自分がどれ程の習熟を得ているのか試し合わせてもらう。

だから、自分の為に相手をしてくれた他人に、お願いします。ありがとうございます。と心からの礼をもって表すのだ。

ガッツポーズなんてもっての他である。

 

武道館の鏡は、いつも問いかける。

今日は恥ずかしい行いをしなかった?

怠けなかった??

嘘をつかなかった??

一生懸命生きた??って。

そんな事ばかりしてると、自分の中のカミサマがいなくなっちゃうよ。見えなくなっちゃうよ。って。

 

 

コメントをお書きください

コメント: 3
  • #1

    Momo (火曜日, 01 8月 2023 17:50)

    沖縄発祥である空手の道場に神棚がある理由が分からず調べており、国家神道によるものとの説明に納得しました。
    ところで練習の初めと終わりに「正面に」礼をするのが一般的だと思いますが、これは神棚もしくは神々に対しての礼でしょうか?神棚がない道場や体育館で練習する場合の正面とはなんでしょう?
    疑問は尽きません

  • #2

    海人 (月曜日, 30 10月 2023 14:04)

    八百万の神々は日本の血筋、民族的な神々なので北は北海道、南は沖縄までの万物に宿っておられるので祀っているのでは無いでしょうか?
    空手は沖縄が発祥と言いますが、当て身技は本土の古武術からの転用ばかり空手義も本土の物なのですが、これらを導入する前はどの様なスポーツ?だったのか気になります

  • #3

    本名OK原伸定 (月曜日, 30 10月 2023 19:45)

    コメントありがとうございました。
    中々興味深いので、少し考えてみます。(^_^)