2023年、ご挨拶。

作家の司馬遼太郎氏は、武士道とは美的慣習の慣習者であると何処かの著作で読んだことがある。

当日学生だった私には若すぎて、それがもつ生き方としてのレシピに気付いてはいなかった。

学生だった自分は何しろ凝り固まった奥手で人生の意味みたいなものを、それこそ辞書で拾って集める様な際どさの中にいたのだか、若さというものは一例を取ってみても後から見てみれば驚く程、滑稽で軽率で得手勝手なものだったとつくづく思う。


さて今日は新年のご挨拶代わりに武士道のもつ美的習慣について考えてみたい。


うちの母方の祖父は、伊予松山の生まれで旧制松山中学、松山高校を出ているというのが自慢の割りと裕福な武家の出身だったのだか曾祖父に当たる人が遊び人だったらしく投機に失敗して身上を潰し、一家でもう一旗挙げようと再起を掛けて上京してきたらしい。

その後、曾祖父はさっさと他界してしまったのだか、祖父には商才があったらしく不動産で僅かながらも財をなし最後は自社ビルをもつ迄に至るのだが、私の知る祖父は田舎出の秀才らしく理知的で端正な顔立ちをしてのだが、どこか傲慢さと神経質さを感じさせ、職人だった父などは理屈っぽく痩せぎみで眼鏡を掛けた、この色白の祖父が大いに苦手だったようだ。だかそんな祖父は、子供らしくなく一言多いと、口煩く祖母に叱られる事の多かった私を、なかなか面白い子だと思ってくれていた様で、ずいぶんと可愛がってくれていたように思う。


その祖父が、私を週末招いては夜半、酒の相手をさせ、こっちはつまみのご相伴に預かりながら昔語りを聞くことが多かった。


ご存知の方もいるとは思うが、伊予松山藩というのは、幕末、御親藩であるという理由で伊予松平家は、やり手が見つからなかった江戸幕府最後の老中を押し付けられ、挙げ句、時勢に疎いあまり、長州征伐の時にやりたい放題やってしまい、明治維新後、新政府から目の敵にされ冷飯を食べる羽目になってしまう。

世は薩長土肥に取って変わられ、黙っていても食い扶持がない伊予松山の子弟たちは官職を求めて、猛勉強する羽目になるのだか、一藩上げてどこか褌が緩んでいるような気風があり、庶民は温かく、勤勉で従順。同じ四国にあっても一両具足を先祖にもつ郷士達が土埃にまみれながら裸足で尻をからげながら、そこかしこと走り回ってるような荒々しさをもつ土佐藩とは大きく違い、その、どこか望洋とした空気の中にあり、あまり悲壮感がない。


春や昔、十五万石のお城かな。


さだめし、この気候も気風も温暖な藩は人材を育成するのにも、充分な環境だったようで、松山を舞台にした小説坂ノ上の雲にも出てくる、秋山兄弟だの、正岡子規だの、高浜虚子だの、河東碧悟桐だの文武に才が多い。


余談だが高浜虚子は40才になる前に鎌倉に移住し80過ぎに亡くなるまで、かの地において精力的に創作活動をしており、うちの祖父とも多少親交があったように思うのだがどうだろうか。

今思えば、キューブツナに目を奪われてないで、もう少し真面目に聞いておけばよかったとつくづくおもう。

さて、その祖父が燗酒を手中で温めている最中に話をするのだが、酔いの中にある話なので多岐に渡るし、とりとめもない。

ただし、うろ覚えなのだが松山武士の話である。

うちの祖父も直接みた訳ではないのだろうが躾としては、まだ色濃く残っていて、そう言われていたという話がある。

冒頭に話した美的習慣のことである。

例えば、寝るときには左側面を上にして臥せよ。

それ以外にも、箸の付け方、厠の作法、草履の脱ぎ履き、泳ぎ方。作法や慣習は多岐にわたし。むしろ、決まりごとの無い事がないくらいであったと。


おそらく祖父も小学生の自分に理解出来るような話をと思い簡単に話してくれていたのだろうが、武士は辻角に立っても道の真ん中をあるくし、雨が降っても走らないなどと言われると、なんともサムライとは、奇妙な連中だと子供ながらに思ったもんだが、こういう精神的な美意識が習慣づいてしまえば、常住の緊張が精神の骨格をつくり、その立ち居振舞いを美しくさせ、いつでもうつくしく死ねる覚悟を持つにいたる。 

 武士は常に美しくあれというのが、武士という精神像を作り上げているのだと今さらながら思う。

これを出家して行うのがおそらく宗教ではないかとも思うが、この話は別に置く。


ともせよ、江戸期の武士はもちろん切腹なんてまずしないし日本史上でも数えれる程しかない。

大多数は畳の上で、それぞれの事情によってそれぞれ往生を遂げることとなるのだが、この往生際をいかに武士らしく美しく彩れるかという一点にこそ武士道はあるし、そこら辺りで僅かながらも武道と接円する事になるのかもしれない。


今もって、そんな武士ばかりの筈はないとも思うのだが、顔も知らない自分の先祖が、関ヶ原で槍働きをしたお陰で結果的にせよ、以後300年という長きに渡り世襲制度を保証されている社会には、そうさせるだけの説得力はあるような気がしてならないし、今なお、マスクを外せない日本人をみると武士の生きざまの成れの果てを見るような気がしてならない。


話は少しずれるが、晩年、そんな祖父と親交が深かった小説吉田学校の著者で平塚在住だった読売新聞の名物記者で政治評論家の戸川猪佐武氏の昭和の宰相シリーズを祖父に薦められるまま、散々っぱら読まされたが、氏の政治的な主張や立場は置いておいて、氏の交遊関係にあった、河野謙三氏(河野一郎氏弟)や、大磯に在住していた吉田茂翁との付き合いにあわせて、祖父と同郷だった高浜虚子との親交などを思い返えすと、絵巻物に出てくる旭将軍義仲や、九郎判官義経みたいな英雄豪傑が幼少期に廻りを彩っていてくれていた様で、思い出すと愉快な気持ちになる。


さて、2023年。

兎年。

ちなみに、人体には烏兎という急所がある。

読みはウト。

ウトに力を込めたり緩めたりして今年もやっていこうと思う。


これを読まれた方は新年の挨拶代わりに直接聞きに来てくれると嬉しい。